【現在】10兆円単位の資金が必要と言うが

韓国で保守政権が成立し、再び日韓トンネル構想が脚光を浴びているそうです。

日韓トンネルが実現すれば、韓国南部と九州北部が日帰り圏内になるそうです。

「日本とヨーロッパを結ぶハイウェイ構想の一環としての日韓トンネルならいざ知らず、日韓2か国を結ぶだけのトンネルであるならば、寧ろデメリットの方が大きい」と一旦は韓国国土海洋部から否定された日韓トンネルですが、再び脚光を浴びるということは、それだけメリットも大きいということです。

先日、「ブラタモリ」で、対馬の韓国展望台から釜山の高層マンション群の窓まで見えることが紹介され、戦後の日韓両国が、互いに別の発展をしてきたことに、私は寧ろ違和感を覚えました。

インターネット上の地図で、対馬の韓国展望台を調べ、そこから画面を北西にずらしていくと、すぐに韓国に上陸します。

釜山を通過し、更に画面を北西にずらすと、慶尚南道昌寧郡など、韓国の農村地帯に到達します。

地図を建造物まで確認できる縮尺にズームアップすると、韓国の農村地帯には、自動車整備工場が多いことが分かります。

日本の農村地帯で、自動車整備工場が目に付くのと理由は同じでしょう。

日韓の相互理解を進めるために、世論調査でどういう方法がいいかと尋ねると、「留学生を増やす」という回答がかなりあります。

私は、留学生を増やすことが相互理解の決定打になるとは思いません。

留学生など、留学できるだけの資産がある階層の子弟しか来ないわけですし、そもそも日本が好きでなければ留学先として日本を選ばないわけですし。

韓国の集団としての反日の凄まじさを考えれば、日本に留学したことがある個人が何を発信したところで吹き飛ばされてしまうでしょう。

それに対して、日韓トンネルが実現すれば、韓国側の集団としての反日を吹き飛ばす決定打になるように思えます。

先述したような、自動車整備工場が目立つような韓国の農村地帯に、日帰りで訪れた軽装の日本人が目立つようになれば、韓国社会でどっぷり反日意識を植え付けられた韓国人も、認識を改めざるを得なくなる機会が増えると思うのです。

その逆、日本人の韓国認識にも変化を及ぼすことでしょう。

【現在】【準現在】「昭和」もそう遠くはないような気がする

東村山稲門会で、新年を祝う会がありました。

駅前立地の会場で、有料駐車場が高いため、歩いて10分掛かる市民センターの駐車場に車を置きました。

車で行ったのも、ノンアルコールだからです。

尺八の演奏が会を盛り上げました。

奏者は、今年40歳になるそうです。

1995年夏休み、阪神・淡路大震災の学習指導ボランティアで出会った小学校6年生たちと同い年だと思いました。

スマホで1995年8月29日からの日数計算をしたところ、ちょうど1万日でした。

ただ、尺八で洋楽を演奏すると、歯切れが悪くなるのが気になります。

小学校の国際交流で、モンゴルの馬頭琴で日本の歌を演奏してみせるという行事がありましたが、同様にどこか歯切れの悪いものになっていました。

年男・年女の挨拶。

70代の方が、「盆と正月には、毎回家族揃って映画館に『寅さん』を見に行っていた」と仰っていました。

私は、『寅さん』はBS‐テレビ東京で全話を見ましたが、映画館に足を運んでリアルタイムで『寅さん』を見たのは、秀吉くんの物語(1988年正月)とサラダ記念日(1989年正月)だけなのです。

東村山稲門会に来ると、ほぼ私が最年少になってしまいます。

【現在】発表した以上ファンがいるわけだから

同僚から聞きました。

Youtubeで行ったファンとの対談で、宮本浩次さんは、子供の頃「はじめての僕デス」を歌ったことは認めながらも、「あ・い・う・え・お・ん・ど」については「俺は絶対歌っていない」の一点張りだったそうです。

おかしいですね。

小学校4年生でこの歌を巡るトラブルを起こしたとは考えにくいし、現在の宮本さんのイメージを壊してしまう歌、ということなのではないでしょうか。

現在の宮本さんは、どちらかと言えば男っぽい強さを強調していると思います。

「『木綿のハンカチーフ』は、女心が男心に染みわたって来る歌」といった発言など。

しかし、そうしたところに、「なにぬねのんのん、プロ野球、はひふへホームラン、かっ飛ばせ」などと歌ったことを認めたら、「今の宮本さんが強がっているけど、子供の頃、学校の友達にからかわれだけで、その歌を嫌いになったことを知っているぞ~」と言われかねないように思えます。

せっかく宮本さんの胸の中に収まりかけた成人女性が、笑いながら宮本さんから離れて行く場面を想像したりします。

とは言え、「あ・い・う・え・お・ん・ど」は、「発売当時需要がなかった」と発売元のクラウンレコードからも手放された作品であり、その上歌った本人からも関係を否定されたらどうなってしまうのでしょう。

日本音楽著作権協会のホームページで検索してみても、権利者がこの作品の権利を放棄していないことは分かります。

権利者は、営利の面からも自分の名誉の面からも扱いたくない作品で、その上著作権は頑として存在しているわけだから、ファンには接近できない作品ということになります。

【現在】学部の編入試験を扱った実験

数年前の12月、早稲田大学教育学部教育学科初等教育専修の3年次編入試験を受けた時、以下のような問題が出ました。

「金属を加熱したら体積が膨張するとの実験を、どのように行うか。『加熱した金属の球を穴に通す』ということ以外の方法を書け。」

教科書通りの方法ならば、上記の方法が定番であると言えます。

しかし、それ以外の方法を書けと言っているのですから、これは完全なセンス問題、つまり実験の意義と目的を完全に理解しているかを問う問題であると言えます。

私は、この編入試験には合格せず、代わりにその2か月後に実施された、学習院大学法学部政治学科の3年次編入試験に合格しました。

過去5年間、合格者がゼロの試験で、私が初めて合格したのです。

問題は、『想像の共同体』から多く出題されました。

民族とは何かを問う書籍であり、関東学院大学大学院文学研究科博士後期課程に入学した折、冒頭で読まされました。

昨日、金属を加熱したら体積が膨張するとの実験を小学校の授業中に行いました。

4年生です。

4年生で行われることを、初めて知りました。

実験器具の実物を見たことがなく、理科室や理科準備室の戸棚を見て歩いても、見付かりませんでした。

担任の先生もよく知らず、「私も探しておきますが、もしなかったら、実験はしないことにしましょう」と言われました。

子供たちにも、実験ができるかどうか分からない旨を伝えました。

すると、理科が得意なZ君が動き出し、理科準備室の床に近いところに実験器具を発見しました。

まず、常温では金属の球が穴を通ることを確認し、次に金属の球をガスコンロで熱しました。

金属の球が葡萄色になるまで熱する班もありました。

穴に通そうとしても、金属の球は体積が膨張しており、通すことはできません。

水を入れた鉢に金属の球を落とすと、ジュッと一瞬蒸発が起きてまた金属の球は穴を通せるようになっていました。

この実験器具を、自宅で購入したいという子供も現れました。

思ったよりも簡単な実験でした。

【現在】【準過去】蒸気船に乗ってやって来た日本外知的生命体

電車の中では、スマホで単語を調べながら、『オックスフォード英英政治学辞典』を読んでいます。

メアリ・ウルスタンクラフト(1759~1797)という項目を読みました。

イギリスの社会思想家であり、フェミニズムの先駆けだそうです。

凄いですね、この時期にフェミニズムだなんて。

1759年生まれの日本人に、松平定信がいます。

中学校2年生の社会で、暗記させられたことと思いますが、寛政の改革を行った人です。

湯島聖堂の学問所で、朱子学以外の学問を学ぶことを禁止した人です。

日本では、紀元前から伝わる儒学しか学問として視野になかったのに、イギリスでは資本主義批判にも繋がる社会思想が始めっていたのです。

それから70年後の生麦事件を思い出します。

江戸時代の日本人がイギリス人を切り殺すなど、UFOに乗ってやって来た地球外知的生命体を切り殺すようなものだったでしょうね。

薩英戦争でしたっけ?日本側とイギリス側の死者数が159対0と言うのは。

その昔の、テレビのUFO特番を見ていて、アメリカ政府と地球外知的生命体との共同UFO研究所でトラブルが発生し、銃撃戦に発展したところ、死者数が159対0(くらい)だったという話を聞いたことがあります。

NHKのドキュメンタリーで、「黄河文明は新石器時代に忽然と現れた」と切り出していました。

古代の中国の早熟ぶり、近代のヨーロッパの早熟ぶりは、どこに原因があるのでしょうか。

【現在】【準過去】私が歌ったら<聴いたことがない>だけ

モンゴル語の授業で、モンゴルの歌を覚えるという課題が出ました。

これで2曲目です。

モンゴルの歌は、メロディーラインにメリハリがなく、覚えにくいです。

母から、「90年次稲門会のカラオケで歌えば」と言われました。

冗談ではありません。

確かに、東京・両国にはモンゴルカラオケがあるようですが、そもそも通常の日本のカラオケに、モンゴルの歌は搭載されていません。

仮に搭載されていたにしても、モンゴルの歌など歌ったら、総スカンを食うこと請け合いです。

聞いた人たちの人生の中には、モンゴルなど存在していないのですから。

母は、私が高校に入学した時に、自己紹介代わりに北朝鮮の歌を歌って総スカンを食ったことを忘れたのでしょうか。

私は中学・高校時代、日本のテレビがすっかり嫌いになって、代わりに北朝鮮のラジオを聴いていました。

私は、「明るい家庭に楽しいテレビ」「母と子供のフジテレビ」は好きだったのですが、「楽しくなければテレビじゃない」のフジテレビは大嫌いでした。

採算性などを度外視し、理想を追い求める北朝鮮が、輝いて見えていました。

しかし、それは、私の脳ミソの中だけに通用することでした。

教室で出会った同世代の人生には、北朝鮮など存在しなかったのでした。

極端に言ってしまえば、彼らには北朝鮮と韓国の区別も付いていなかったかもしれません。

「教室から出て行け、この韓国人!」と同世代に対応されたことから、ある程度推察が付くのです。

高校時代、教室で出会った同世代とは、卒業までそれっきりでした。

私が中学校3年生の頃、1個下の後輩が、「ギンギラギンにさりげなく」を歌いながら、「何、その歌?」と尋ねる私に向かって、「小田先輩が知らない歌ですよ、『明るい家庭に楽しいテレビ』など夜の12時で放送終了」と言ったたことからも、高校時代に同世代から総スカンを食うのは既定路線だったことが分かります。

「何、その歌?」というのは、とぼけて言ったのではなく、本当に知らなかったのです。

そして、中学生になったばかりの頃、母が「我愛北京天安門」を自己紹介代わりに歌ってみれば、と私に言ったのを思い出しました。

親が親なら子も子、子が子なら親も親だったのです。

中学生になったばかりの時点で、彼らの人生の中に中国など存在しないことが分からなかったのでしょうか。

私は、小学校6年生の後半から、英語ではなくて中国語を学びたいと思っていました。

漢和辞典を眺め、NHK教育テレビの中国語入門を見て、そう思ったのです。

アメリカは嫌いだったため、中学に入っても、真面目に英語を勉強する気にはなりませんでした。

しかし、同世代の頭の中にあったのは、アメリカ、アメリカ、アメリカ、アメリカ…。

ひょっとしたらそれ以外の要素もあったのかもしれませんが、私にはそれが見えませんでした。

中国の歌を歌ってみせたり、中国語を披露してみせたら、「教室から出て行け、この中国人!」と同世代から対応された可能性が高いと思っています。

中国から北朝鮮に乗り換えたのは、日中友好平和条約直後の友好ムードの中で、日本向け北京放送が硬派な政治的主張をしなくなり、軟派路線に切り替わって行ったことがきっかけでした。

【現在】【準現在】大学に行くと頭の配線が繋がる

ある人と喫茶店で談笑していました。

その人は、先日NHK‐BSプレミアムで見たとして、「戊辰戦争の時、江戸幕府軍が、プロイセンに北海道を割譲しようとしていたそうだ」と言い出しました。

以前の私なら、笑い飛ばしていたと思います。

幕末のドイツは、群雄割拠の状態で、海外進出をする余裕などなかったとするのが常識的な歴史理解だからです。

しかし、学習院大学法学部政治学科の、文章表現の先生が言ったことを思い出しました。

「興味のない本でも、読んでみろ。興味がないで投げ出してしまったら、拾えるはずだったものが拾えなくなる。」

その人が言うことを、スマホで調べてみました。

ありました。

戊辰戦争で江戸幕府軍の一翼を担った会津藩と庄内藩が、プロイセンが江戸幕府軍の側に立って戊辰戦争に介入してくれたら、プロイセンに蝦夷地を99年貸与しようという提案をしていたことが最近の公文書研究で明らかになり、北海道新聞が取り上げているのです。

もし実現していたら、「北海道は昭和40年代までドイツ領だったことになる」とのことでした。

その人は、ドキュメンタリーでそのような史実解明ができたことを称賛していました。

私は、文章表現の授業での、付箋を使ったドキュメント構成を思い出しました。

ドキュメンタリーを見る側だけではなく、ドキュメンタリーを作る側も想像できたのです。

大学教育は受けるものです。

私は、文教大学4年生の時、まるで高校19年生でした。

高校を出て以来、何をしていたのでしょうか。

【現在】プラタナスの枯れ葉舞う冬の道で

ある書籍を求めて、文京区立真砂中央図書館に行きました。

東京メトロ丸の内線の本郷三丁目駅で降りると、ぷんと鶏の唐揚げの香りがします。

少し歩いて大通りに出ると、ホテル機山館という安宿があります。

寅さんが旅先で泊まっていたような宿です。

この辺りには、大衆食堂・弁当屋・コンビニが多いところを見ると、独り暮らしが多いのだと思えます。

「失郷」という言葉が頭をよぎりました。

故郷を失い、家族を失い、気が付いたら都会に一人で投げ出され、明日死体で見付かるような人もいるかもしれません。

図書館の近くには、小さな児童公園があり、小学校低学年の遊び声がキンキン響いています。

早稲田大学3年生の時にボランティアで行った、豊島区立雑司が谷児童館を思い出します。

あれから経過した36年の時間が、まるで一瞬のように思えます。

あの頃、私は21歳でしたが、私の母も61歳でした。

図書館で目当ての書籍を閲覧し、帰路に就いたらちょうど日が暮れたところでした。

東京メトロ本郷三丁目駅の入り口がなかなか見付からず、スマホで調べたのですが、目標として都営地下鉄の本郷三丁目駅が表示されるばかりで、東京メトロの本郷三丁目駅はおろか、自分が現在いる場所も表示されません。

街灯の少ない都会の路地を、寒風吹く中ずいぶん歩きました。

大体の目標があるだけで、現在の自分がどこにいるのか分からない、というのは、まさに自分の境遇なのです。

学習院大学法学部政治学科に在学しており、卒業したら修士、博士に進学するつもりでいますが、それが実現するという保障はありません。

それが実現するまで、母が健在であるという保障もありません。

弓町本郷教会という場所に出て、やっとスマホで現在地を確認できました。

私が人生でどの位置にいるかを確認するために、キリスト教会に通えという意味ではありませんよね。

東京メトロ本郷三丁目駅の入り口は、小さい四つ角を右折した、目立たない場所にありました。

隣の居酒屋と区別が付かないくらいの大きさでした。

無理に重ね合わせるならば、私の人生の目標地点もいずれ見付かるのかもしれませんが、注意していなければ見過ごしてしまうような目立たない地点なのかもしれません。

【現在】【準過去】私の頭蓋骨はブラックホール?

年末、学習院大学法学部政治学科の「文章表現」で、小熊英二『生きて帰ってきた男ーある日本兵の戦争と戦後-』(岩波書店、2015年)が取り上げられました。

日本兵のシベリア抑留体験を纏めた本です。

4年生のZ子さんが、「私はZ世代、曾祖父がシベリアに抑留されたらしいが、祖父からも多くのことは聞いていない」と語りました。

私は、Z世代という言葉に馴染みもありませんでしたが、Z子さんの語りから「歴史に疎い」という意味合いを感じました。

映画『ラーゲリから愛を込めて』は是非見たいとZ子さん。

『ラーゲリより愛を込めて』。

コンビニの店頭や、電車の吊り広告ではよくポスターを見掛けましたが、嵐のメンバーが日本兵を演じるというアンマッチから、私はあまり関心を持っていませんでした。

しかし、ふっと思い立ち、今日、ユナイテッド・シネマ・ウニクス南古谷で、本作を見て来ました。

ソ連軍が満州に攻め込む直前の、哈爾浜(ハルビン)の中華料理屋での主人公の一家団欒から始まります。

主人公の息子は小学校低学年。

ふとその息子に、母方の祖父が私に掛けたという言葉を思い出しました。

「〇〇〇(母の実名)は、哈爾浜で一番可愛い。」

母は、この頃19歳であり、哈爾浜に住んでいました。

主人公のシベリア体験の話の後、遺族の戦後史に話は移り、孫娘が結婚し、祖父が祝辞を述べます。

寺尾聡演じる祖父が、「祖父がシベリアに抑留され…」と話を切り出しました。

びっくり。

結婚しようとしているのは、主人公の孫娘ではなく、主人公の曾孫だったのです。

そして、祝辞を述べている老人は、主人公ではなく、哈爾浜の中華料理屋にいた、主人公の息子だったのでした。

「文章表現」で、Z子さんが語っていた通り、Z世代という名の今の若い人たちは、戦場に行った世代の曾孫世代だったのでした。

私は、自分の年齢には知らないふりをして学習院大学で学んでいますが、現役の早稲田大学時代からは知らない間に一世代が経過していたのです。

場面は再び哈爾浜の中華料理屋での一家団欒に戻り、そこで本作はおしまい。

外に出たら、既に真っ暗になっていました。

浦島太郎なのかもしれません。

日中、老夫婦が住む我が家の向かいの家に、小学生(兄は高学年、弟は低学年)の孫が遊びに来ていました。

現在41歳になるこの子供たちの父親の顔を知っていますが、不思議なことに父親の顔は33年前小学校2年生の時の顔しか浮かびません。

その頃、私は23歳であり、現役の早稲田大学の学生だったのでした。

私の頭蓋骨は、どうやら時間の経過を跳ね返す性質があるようです。